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四つ年上の従兄に自分が追いつけないだろう、などということはもうかなり前から気付いていた。
一つ年下の従弟がすぐに自分を追い越していくだろう、ということにももう気付いている。
努力がいつか報われるだなんて、信じたことは一度もない。
それでも努力しなければ、追う背中が遠すぎて迫る足音は速すぎた。切迫した焦燥感に晒されている時間が長かったので、何もしなくてよい時は何もしなかった。そういう時間まで「努力」に割り振るほどの強靱さはないと自覚したのは、いつだったのか。
庭木や池を見てぼうっとしている息子を、親は「おっとりしすぎていて心配だ」と言っていたが、彼らが心配すべきはそこではなかった。聡い従兄は自分がおっとりしているから池を見ているわけではないと気付いていたが、幸いなことに動く気力すら使い果たしているとは思い至らなかったようだ。頭の良い男だった。頭の良すぎる男でもあった。
「どうした元譲」
池に落ちたなんだかよくわからないものをじっと眺めていたら、少し心配そうな、或いは幾らか恐れるような声で問いかけてくる。大人たちのように「おっとりした子」では片付けられない分、この年上の従兄にとって、そういう時の自分は不可解で気味の悪いものだったのだろう。
「いえ、池を」
眺めていました、と曖昧に笑って応えると、従兄は微かに眉を顰め、やはり曖昧に頷く。兄弟のようにして育った従弟が何を考えているかはわからなくても、自分にそれが理解できないことはわかったのだろう。本当に、頭の良い男だった。才人には凡庸な人間がどうして届きもしないものを求めて必死に手を伸ばすのか、理解できようはずもない。理解する必要もないことだ。
「ちょっと変わっているな、お前は」
僅かな逡巡の後に与えられたその評価は、自分にとって、嬉しくはないが楽ではあった。今後、この従兄の前で自分がどれほど無様に立ち尽くしても、彼は「変わっているな」と思ってくれるだろう。
◆ ◆ ◆
血にまみれて元の色が分からなくなった杖を静かに置くと、夏侯惇は深く息を吐いて額に落ちてきていた髪を後ろに撫でつけた。こんな時に子供の頃のことを思い出しているとは、自分も少々どうかしている。従兄に「変わっているな」と言われても仕方ないかもしれないと、物言わなくなった骸を見下ろしてそう思った。
兄弟子だった男が、血だまりの中に倒れている。間違いなく死んでいるのを確認すると、そのまま背を向けた。歩きながら今後のことを考えている。
自分とこの兄弟子の間に確執があるのは、誰もが知っている。直前まで二人でいたことも知られているので、隠しおおせるとも思えない。
まず、家を出ろという話になるだろう。親たちにしてみれば、他に手の打ちようもないはずだ。我が子を役人に突き出せるほど冷たい親でもなかったし、かといって家に匿えば何かと面倒なことになる。夏侯惇が殺した兄弟子にだって親族はいるのだから、仇を討とうと目論む者もいるに違いない。となれば、勘当したという名目で遠縁の家にでも預けるより他にないだろう。
「親不孝なことですね」
呟いてみたが、自嘲と呼べるほどの深刻さもない声だった。我ながらどうかしていると思いつつ、夏侯惇は淡く苦笑する。人を殺しておいてこの程度のものなのかと、愕然とするような思いはあった。手のひらで乾き始めている血が汚らしいという気持ちはあるが、殺した相手が可哀想だとか、今後の我が身がどうなるのかというような不安は全く生まれてこない。
あっけないものだと思いながら、兄弟子を殺してしまったことに対する言い訳を頭の中で練り上げていた。学問の師を口汚く罵ったので。そう言っておけば親族のほとんどは納得するに違いない。実際、あの兄弟子にはそうした悪癖があり、同門の者たちも眉を顰めていたことだし。
問題はそういう言い訳が通用しそうもない従兄なのだが、それももう良い、と思う。
とにかく、しばらくの間はあの従兄と離れて過ごすことができる。もしかしたら二度と会うこともないかもしれない。
そのことを寂しく思うよりも安堵している自分に気がついて、今度こそ口元に自嘲の笑みを貼り付けた。
孟徳という字のあの従兄が、嫌いなわけではない。
兄弟同然に過ごし、兄として慕い、憧れて、友人でもあった。
ただ、それでも安堵している。あの男の足下から離れていけることに。前を行く背中が、遠くなりすぎていたのかもしれない。遅れまいとして走り続けることに、きっと疲れていた。
「この歳で人生に疲れるっていうのもどうなんでしょうね……」
呟いてはみたものの、虚しいだけだ。人生と言うよりはあの男の弟でいることに疲れたのだろうが、それを口にしてしまえばあんまりだという気がした。自分か、従兄か。どちらに対してあんまりなのかは、よくわからないが。
赤い赤い夕日が、目に映る全てを染めていく。
暴力的なその色に塗り替えられる世界の中で、足下に長く伸びた影だけが赤を拒み、孤独だった。
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